宿と小説の読みもの、余白
RECORD № 120

丸をつける

選ばなかった人生を説明しない、静かな肯定

子を持たない生き方を選んだ。そこに至る道のりを、誰にも説明しない。説明しないことは、隠すことではない。他所の物差しで測られない練度が、少しずつ上がっている。

有希という語り手について →

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返事

叔母から返事が来た。

私が出したのは三行だった。天気のことと、料理が美味しかったこと。会食の席で聞かれたことには、触れなかった。

返ってきたのは二枚だった。便箋の表と裏に、細かい字で書いてある。

読んだ。庭の梅のこと、いとこの子の進学のこと、自分の膝のこと。

「庭の梅が、今年は早いようです」

書き出しはそれだった。そして、私が触れなかったことには、触れていなかった。

触れないで書いた手紙に、触れないで返ってきた。

同じことをしているのか、気を遣われたのか、私には分からない。分からないので、そのままにした。

机の上に、菓子の缶がある。実家の片付けの残り半分から出てきたもので、母が切り抜いた旅行雑誌の頁が入っている。

缶の中のどれにも、印は何もついていない。母の字で丸がついた一枚は、缶とは別にある。前に一度、その丸を頼りに長崎まで行った。丸があったのは、その一枚だけである。

缶のほうから一枚出して、この前、地名を調べた。宿はまだあった。

四便

三重の、山のほうだった。

近鉄の駅から、宿の送迎バスで十五分。予約が要る。便は一日に四本で、十四時半、十五時半、十六時半、十七時半と書いてあった。

十四時半にした。理由は、早いほうだったからである。

画像はイメージです

新幹線から近鉄に乗り換えて、山のほうへ入った。二月の入口で、田は乾いている。刈ったあとが、まだ黒い。

榊原温泉口という駅で降りた。降りたのは、私を入れて三人だった。

駅の前に、宿の車が停まっていた。三人とも、同じ車に乗った。

三つ

宿の廊下に、湯のことを書いた紙が貼ってあった。

千年前の随筆に、湯の名前が三つ並んでいるのだという。そのうちの一つが、ここだと言われている。

言われている、と書いてあった。断定はしていない。

理由は書かれていない。並べただけで、千年が経っている。

私はその紙を、二度読んだ。

なぜその三つなのか。他の湯と何が違ったのか。書いていない。書いていないまま、名前だけが残っている。

母の切り抜きも、同じだった。切って、しまって、理由を書かなかった。丸をつけた一枚にも、理由は書いていない。

湯はとろみがあった。手のひらで肌をなでると、指が引っかからない。

窓の外は山で、木の形が空に出ている。二月の入口の木は、葉がない。葉がないので、枝の分かれ方がよく見える。

画像はイメージです

長く入った。何も考えなかった、とは書かない。考えていた。

夕食は部屋ではなく、下でとった。名前を知らないものが二つ出た。聞かないまま、どちらも食べた。

隣の卓に、男が座っていた。品書きも手帳も持たず、箸だけを持って、一つずつ間を置いて食べていた。急いでいない。急いでいないのが、こちらから見て分かるほどだった。

朝、もう一度湯に入った。

十時に発つ。帰りの送迎の時刻は、帳場で聞いて、それに合わせた。

部屋を出る前に、鞄から切り抜きを出した。持ってきていた。一枚だけ。

宿の名前が、頁の隅に小さく載っている。私が昨日から泊まっている宿である。

母は、ここを切った。切って、丸はつけなかった。つけないまま、行かなかった。

私はペンを出して、その頁に丸をつけた。

母の丸は鉛筆で、私のは黒のボールペンだった。色が違う。同じ紙の上で、二つの丸は、たぶんこれから並ばない。母の丸がついているのは、別の一枚だからだ。

つけてから、少し見た。それから折って、鞄に入れた。

残り

帰りの近鉄で、缶のことを考えた。

残りには、母の丸も、私の丸もついていない。

全部に丸をつけるつもりはない。行くつもりも、いまはない。

ただ、丸をつけられるということは、分かった。つけるのは、母の側の仕事ではなくなっている。

家に着いて、缶を開けて、丸をつけた一枚を戻した。順番は考えなかった。上に置いた。

蓋を閉めるとき、缶の底で紙が少し滑る音がした。

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Field Notes

湯元 榊原舘

Overview

三重県
Region
三重県津市榊原町(榊原温泉)
Access
近鉄「榊原温泉口駅」から宿の送迎バスで15分。送迎は要予約で、14:30・15:30・16:30・17:30の一日四便。車は伊勢自動車道・久居ICから国道165号を奈良方面へ15分
Price
予約サイトで確かめた二万円台半ば〜(1名1室・条件不明) 公開の情報から中〜高価格帯(Reluxの1名1室で二万円台半ば〜。ほかに二万円台半ば・三万円台前半・三万円台半ば の表示がある)

Facility

Room
大人1名・1室の検索で部屋3件・プラン4件(2名の検索では部屋5件・プラン5件)
Meal
食事の付くプランがある。予約の段階で選ぶ

宿タイプ

  • 温泉旅館
  • 老舗宿

向いている人間

  • 一人で予約したい人(1名で部屋3件・プラン4件が表示される)
  • 到着の時刻が送迎の便で決まる旅程を受け入れられる人
  • 駅から歩かずに入りたい人

向いていない人間

  • 到着の時刻を自由に決めたい人(送迎は要予約で一日四便)
  • 部屋を広く選びたい一人客(1名で出る部屋は3件)
  • 移動を短くしたい人(東京から新幹線と近鉄を乗り継ぐ)

予約前の注意事項

近鉄「榊原温泉口駅」からの送迎バスは要予約で、14:30・16:30などの一日四便のみ。この四便に合わせて到着の時刻を決めることになる。1名で出る部屋は3件、プランは4件。料金と食事条件はプランで分かれるので、予約の段階で確かめること。

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